S少年の父は栄養不良から脚気にかかり亡くなってしまった。母は市場で薄いおかゆを売って生計を立てていたが、それが水粥になり、どこを探しても米粒など見つからない、白くにごった水に変わっていくには時間がかからなかった。家族はそれでも食べ物が口に入るだけ幸運だと思った。食べるものに困った人々は草やら、ねずみやら、口に出すのもはばかれるものを食べて生き延びていた。
今回干ばつの被害を大きくした理由のひとつは日本軍による米の徴収だった。巷のうわさによると、ジャワ島で取れた米を他の太平洋地域、そしてはるか日本にまで輸送している、とのことだった。
S少年の家族は貧しかったものの、ひとつだけ財産を持っていた。それは一頭のヤギだった。このヤギを手放してしまったら、家族は何ももたないことになる。そうしたら当然飢え死にも覚悟しなければならない。このヤギの世話はS少年の仕事だった。でも彼は頭を悩ませていた。ヤギは大量の草を食べなければ生きていけない。干ばつというのにどこに草など生えているだろうか。かろうじて生えている草さえも飢えた人間の食料と化しているのだ。この地域で唯一草が青々と生い茂っている場所といったら、日本軍の駐屯地だけだ。ヤギは日々やせ細っていった。S少年は悩んだ。このままヤギが死んでしまったら、一家総倒れだ。かといって駐屯地に侵入して見つかったら命はないだろう・・・
もう考える余地は残っていなかった。ある日S少年は駐屯地に入り込み、ヤギに草を食ませた。案の定日本兵に見つかり、襟元をつかまれ、兵隊が大勢いる場所に引きずられていった。S少年は日本語がわからなかったが、一生懸命訴えた。頭は上げず、地面にひれ伏して、王様に使うジャワ語で「ご主人様、お許しください、お許しください」と、と唱えるように何度も何度も繰り返した。頭上で日本語が飛び交った。どれほどの時間が経っただろうか、S少年は許された。もちろんここで首をはねられていたら、私がこの話を聞くこともなかっただろう。
S少年は戦争をかろうじて生き延びた。少年時代の栄養不足がたたったのか、病弱な一生を過ごした。そして貧しさゆえ、小学校に通うこともなかった。彼はその後プロのガムラン奏者S先生になる。プロとはいえ、先生とはいえ、体が弱かったこともあり、生活はいつも厳しかった。
S先生は「運命とは不思議なものだね。日本兵に殺されそうになったときには、こんなに大勢の日本人生徒が来るようになるとは想像もできなかった」と、感慨深げに語ったものだった。体が弱かったS先生は6年前になくなった。そして彼が残した家は5月の地震で崩れた。



