待望の桜の季節になりました。暖かい春の日差しを感じると「我々の季節がやってきたー」という気分になります。さて、前回書いた「留学事情今昔」について、質問がいくつかありました。その中でも一番多かったのは、踊りや音楽の学習方法の変化についてです。今回はそれにお答えする形で書いていきたいと思います。
踊りに関していえば、伝統的な学習方法は今とは全く異なるものでした。カセットプレーヤーなど存在しない時代には、生のガムラン演奏があればしめたもの、ないときは、拍を数えることもなく、淡々と先生の後について踊る、これを延々と繰り返すことが多かったそうです。この場合重要となるのは、自分の頭の中に音楽が入っているかどうかです。つまり、外から流れる音楽に頼るのではなく、頭の中のカセットプレーヤーで音楽を流しながら練習できるかどうか、ということが重要だったのです。踊り手は踊り手の前に音楽家でなくてはならない、といわれたのも、こういうことだと思います。
私が踊りを学習し始めた頃にはカセットテープはありましたが、ビデオは全く使いませんでした。よって、その場ですべてを吸収することを余儀なくされます。そのために全神経を集中しなければなりません。また、じっくりと先生と向き合う、そしてそれによって生まれる緊張感は今でも強い感覚として残っています。ある意味、昔のほうが密度の濃い時間を過ごせたような気がします。
現在では音響も映像も発達するにつけ、誰でも簡単に踊りを習うことができるようになりました。ただし、練習しやすくなった反面、落とし穴があります。
ビデオはすばらしい文明の利器ではあるものの(私もこの5−6年間本当にお世話になっています)、時としてビデオ依存症に陥ることがあります。踊りにおいてテクニックは重要ですが、本当は目ではなく体全体で習得することが大切なのです。鏡を前に練習することを禁ずる先生も多くいますが、それも同様の理由からです。そしてさらに重要なのが、心でのみ感じ取れる「何か」−これはジャワではラサと呼びますが−が踊りの「味」を決めるものとなります。どうもビデオに頼りきってしまうと、その場に集中したり、理屈ではなく心で感じ取る、人のまねではない自分だけの世界を作り出す、という能力を発達させずに終わってしまう杞憂があります。
また、自分の頭で踊りをイメージしたり、ビジュアル化できる能力は重要なのですが、ビデオがあると、そのような努力をする前にビデオを見て終わってしまうことが多くなります。これでは、自分の頭で踊りを構成するという能力が全くつきません。練習の「ハイテク化」に伴い生徒の頭で考える能力や集中力が求められないままに、少しずつ退化しているのではないかと思うことがあります。
見たいテレビ番組をビデオで撮っておいたのはよいけれど、それが溜まりにたまって、結局は見なかったという経験はありませんか?踊りでも同じことです。「今」に全身全霊を集中させ「体験」する、そこに芸術のすばらしさがあるのですが、ビデオに頼ると「体験」よりも「記録作り」に集中してしまう結果、感性が研ぎ澄まされることなく終わってしまいます。
現代人は家事も仕事も文明の利器に頼ってきました。その恩恵を受けること自体は何も問題はないのですが、それと同時に人間の能力は確実に下がります。芸術においてはそれが大きな問題であると認識しなくてはなりません。

