敬老の日を迎えて、テレビや新聞では「老い」に関するテーマが数多く見られる今日この頃です。どこかのコマーシャルにもあったように、老いは人類平等です。踊りに従事していると、普通の人よりこの事実を意識する機会が多いような気がします。同時にその捉え方にも文化的な色合いが強く出てくることに気づきます。
日本の芸術においては、成熟した踊り、成熟した表現力が好まれます。70を越えても、80を越えても、恋するうら若い乙女を描くことができる。そしてそれだけではなくて、それが評価される、これは、日本人にとって当たり前かもしれませんが、良く考えると、ここに日本の伝統芸能の奥深さと懐の広さ、表現の自由が見えてきます。
ところは変わって、インドネシアでは若い踊り手が好まれます。儀式性の強い踊りには、初潮前の少女でなくてはならない、という決まりも以前はあったようです。一般的に平均寿命が短い国では、若さというものに対する憧れが強いのではないか、と主張する人もいます。結婚式の出し物としての踊り、王宮での踊りも、踊り手の大部分は20代前半です。踊りの先生になるのならいざ知らず、「旬」を越えてしまった踊り手は、結婚したり出産したり、なかなか一線で活躍し続けるのは難しい状態です。
しかし日本でジャワ舞踊を始める人は、ほとんどがすでに「旬」を越えた(失礼!)年齢です。しかも「ピアノもバレーも芸術はすべて3歳から始めなければだめ」という考えが強い中で、我々の存在理由、そして踊りを続けていく理由は何なのか、時々改めて自分に確認することが必要となってきます。
先日「老い」に関するテレビを見ていて、100歳を超えても日本舞踊を踊り続けている女性の美しい姿に感銘を受けました。「生きる」ということを中心に考えると、自分にも人にも言い訳をせず、自分が生かされているということを日々感謝しながら生きていく、ということが普通の生活においてはもちろんのこと、芸術を追求する上では妥協できない部分ではないか、と思います。書いてしまえばそれだけのことですが、日々それを実践し、さらにその上に大きな理想や目標を掲げ、それに向かって精進することの難しさを感じます。
若くて美しい踊り手は、いくらもてはやされようが、年を取っていきます。そこで終わってしまう人もいれば、40、50、過ぎてから大輪の花を咲かせる人もいます。その差は何なのか、やはり一日一日の積み重ねに尽きるのではないでしょうか。
老いを嫌って突っぱねる人もいますが、芸術において、特に日本で活動していく上において、老いは「芸の肥やし」です。そう考えるとこれから年を重ねることをポジティブな目線で捉えることができますし、わくわくしてきます。確かに肉体の衰えは顕著に訪れるでしょう。でも嘆くことなく、あきらめることなく、しっかりと向かい合うことによって、老いを友にしている、素晴らしい踊り手をお手本にして、練習に励もうと思います。
先日テレビの番組で長寿に関しての最新研究を特集していました。日本人の寿命が長くなる中で、いかに長くではなく、いかに豊かにがキーワードになりつつあります。足腰を鍛えること、有酸素運動をすることが重要だ、という話をしていましたが、ジャワ舞踊はこの2つの条件を満たし、さらに体に負担をかけないというすぐれた特質を持っています。
生涯学習が教育の主流であるアメリカにおいて、一生を通じて生きがいを持つことの大切さ、教育がそれをサポートすることが当たり前になっています。日本では受験や就職のための勉強が主流ですが。そのようなアメリカで教育を受けて感じ入ったことがあります。私は子どもの頃からピアノが下手だったのですが、大学ではピアノの個人レッスンをやらなければなりません。そのとき最初に言われたことが、「君は世界的コンサートピアニストにはなれないが、良いピアニストになれるのだよ」でした。小さい頃からピアノを練習する人は多分「世界的なコンサートピアニスト」を目指しているのでしょう。でも「良いピアニスト」とはどういうことか、テクニック以外で考えることはあまりないかもしれません。でもたとえばフジ子・ヘミングが多くの人の魂を揺さぶることができたのも、彼女が「良いピアニスト」だからではないでしょうか。
私は今でも時々「良いピアニスト」とはどういうピアニストのことなのだろうか、と考えます。同時に「良い踊り」とはどういう踊りだろうか、と考えます。私の先生が生前「良い踊りとは、悪い人間を良い人間に変える踊りではないか」と時々考える、と語っていました。そんな踊りってあるんでしょうか?今の私では無理でしょう。でも考えるだけでわくわくしてきます。

